3つ目のハイライトは、川原の暮らし。
ライフスタイルの転換期
<川原の暮らし>
2006年、また時はさかのぼるけど、私の人生をガラリ180度変えるきっかけになったのは、川原のキャンプ。
それまで完全にインドア派の私。
昼間のお天道様より、夜のネオン。
そんな暮らしを続けた結果、32歳のころ心身ボロボロヨレヨレになったことから、本格的なヨガの道に進んだ私、
当時、すでにマクロビオティックを始めていて、
徐々に意識が自然に向いていた私に夫が言ったひとこと。
「はるーた、キャンプ行ってみる?」
私は、そういう経験をしたことがなかったので、二つ返事で、いくいく!!行ってみたーい!!!ってことになり、
このころから約10年間ほど、夫との共通の趣味としてキャンプをするようになっていった。
川原で遊ぶ、じゃなくて、川原で「暮らす」
当時を振り返ると、
キャンプといっても、そこにはよくある「レジャー感」は少なく、
どちらかといえば、単なる「暮らし」。
家の暮らしを、そのまま川原でならどうするか、みたいな「実験」だったと思う。
だから家から持ち出す物も、
キャンプ用のプラやアルミの軽量で割れないもの、
ではなく、
普段使っている茶碗や皿、
グラス、ワイングラス、カトラリーもそのまま。
籠や盆ざるをもって、
川原で野菜を干しながらそれを食べるとか、
土鍋で玄米を炊き、いつも使っているフライパンや鍋で野菜だけで調理するとか、
そしてその野菜も自分たちの畑から収穫していったもの。
もちろんニャンズも一緒にテント暮らし(笑)
これが最高に楽しく感じてたんだ!!
都内のマンションから川原に行く日が待ち遠しく、
その道すがら眺める田園風景が愛おしく、
藁ぶき屋根の家を見ては古民家暮らしを夢見て、
田畑を眺めれば、農的暮らしに思いを馳せてた。
あのころは田舎暮らしを夢見る夢子ちゃんで、
「天然生活」を体現するつもりだったんだよね。
そんな私だから、川に行ったら川原でお炊事。
ってことで「洗剤」を使うわけにはいかないから、
おのずと油を使わない調理法を選ぶことになる。
マクロビオティックには、ウォーターソテーといって水で炒めるという調理法があるからこれは本当に役立った。
早朝は川原でヨガ、朝の「沐浴」。
来年はインドだ、と決めていたので、
川の神々、水の神様と親しくなってからガンジス川に行くんだと、沐浴練習にいそしむ私だった(笑)
こんなことを休みのたびに続けていて、
長いときは1週間くらいテント暮らしをしていた。
自分と自然の繋がり、モノを持たない暮らしへ
ここで気づかされたのは、
自分が排出するものと、自然環境の関係性。
日々の生活でどれほどのごみを出し、
日々の生活でどれほどの洗剤を垂れ流し、
それがそのまま、自然環境に多大な影響を与えるという事実に、
はじめて立ち止まって向き合ったころだと思う。
地球温暖化、
水質汚染、
気候変動。
それって、私たち自身の問題なんだ、ということに意識が向いた。
さらに、川原ではたったこれだけのモノで暮らせるのに、
なぜ家にはあんなにたくさんモノがあるんだ!?
という疑問が湧き上がり、
すでにそのころには、テレビや炊飯器、電子レンジといった、一般家庭には当たり前にある家電製品は断捨離済みだった私は、
そこからますます、モノを減らすライフスタイルに入っていった。
同時に、界面活性剤の入った洗剤の使用をやめ、
エコ洗剤、石鹸、自然派シャンプー、
重層、クエン酸、過炭酸ナトリウム、塩、
これらで自分の身も清め、
洗濯や掃除も賄うようになっていった。
食生活の大変容の頃
マクロビオティックは決してヴィーガンではないけれど、
当時の私は、動物性のものを完全に取り除いた暮らしをしてた。
肉、魚、乳製品、卵はもちろん、
子宮筋腫やPMS、椎間板ヘルニア、そして過食嘔吐の改善を目的にしていたので、白砂糖や小麦粉も避けて暮らしてた。
日本の伝統食への意識も高まっていったプロセスで発酵食にも目覚め、
さらに断食をはじめとした「心身の浄化」にもはまっていった。
自分なりの食や健康への世界観が決まっていった時代といえる。
この流れが、その後の農的暮らしに繋がっていくわけだが、
はじめたときは、すべてが真新しく、
これまでの常識を180度覆すような体験にのめりこんでいった。
実際、身体はみるみる健康を取り戻し、
ほとんどの不定愁訴は改善され、
さらにライフスタイル全体が激変していったことで、
気づけば私の周りには、ヨガとマクロビオティックをする人だけになっていった。
当時は、周りの人と価値観、世界観が近いことがとても心地よく、自分の居場所を見つけたような安心感を感じていたけど、
今では、あの流れが、私の世界を一時すごく狭くしたんだなと思う。
前の記事にも書いたけど、
こうなると、自分たちは正しいことをしていて、そうでない人たちは間違っている、という価値観、世界観が、言葉にせずとも意識の奥の方に定着しがち。
今では、多種多様な価値観、世界観を持つ人と交わることが、自分をさらに豊かにすると思えるけど、
当時の私は、その中にいることが安全だと感じていたと思う。
川の流れ、思考、マインドフルネス
あのころ、川に魅了されてた。
川の流れは淀みなく、見ているだけで気持ちがすっとした。
川の波間をじぃーーっと観てると、
視点をそこにフォーカスしすぎると、視線がびゅっと流れに持っていかれる。
でも、ある一点をぼんやりと、でもはっきり眺めていると、川の流れは私の前を流れ去るだけ。
川の流れを思考と捉えれば、
流れゆく思考に捉われたとき、その思考の流れに持っていかれる。
思考を観察するって、このぼんやりと、でもはっきり観てるって感覚かー。
本で読んでいた、瞑想の境地ってもしかしてこれかも!
マインドフルネスってこういうことか!
あのころ、まだ実践が乏しく、知識でそのことを知っていた私は、
自然はこうやって真理を教えてくれるんだなーと感じていた。
川原でゴロンと寝転がっていると、
そこで目に入る樹々の葉が、まるで私たちの細胞のように感じられ、
そこを流れる川は私たちの血管であり、
大地は私たちの肉である。
そして天と地を巡るエネルギー循環が生命そのものではないか。
そんなことをぼーっと考えてるのが大好きだった。
あのころ、まさに自然が先生だった。
そして何より気持ちがよかった。
とてもリラックスできて、都会での睡眠と、山の中での睡眠はまったく別ものだった。
空も美しかった。星がこんなに見えるなんてすばらしいことだと感じた。
だから、その自然にもっと触れたくて、
そしてその自然の循環の中で生きていたい、と強く願っていったんだ。
地球と私たち人間の差異がないことに気づいたとき、
この地球を大事にしたい。
それはつまり、私たち自身を大事にすることなんだと感じた頃。
2006年は私のそんな探求の入り口だった。
そしてたどり着いたのは、極限の乾燥
その入り口から、私はどんどん奥に入り込んでいった。
あれから10年たったころ、
2016年ごろ、私は畑で土まみれになっていた。
化粧も一切せず、あんなに大好きだったオシャレもまったくせず。
身体のラインが絶対に出ないゆるーいナチュラル系のワンピか、
モンペと割烹着がユニフォームみたいになって、
でも、そんな昭和のおかあちゃん風情になった自分のことも気に入ってた。
1日の大半を畑か台所で過ごし充実した日々を過ごしながらも、
私はあるときはっとした!
それは、、、
「私、土そのものじゃん」
日焼けした肌はまっ茶色でその肌はカサカサと乾燥し、
夫とのセックスもまったくなくなってて、
でも数ヶ月に一度くらい、
セックスレスがもとで口論になったあとなど、
ときどき身体をあわせても膣が乾燥しきってて痛くて仕方がない。
思えば心もカサカサ。
神経質で、せかせかして、べきねば思考に捉われていた。
あぁ、なんか私、いろんなモノを捨ててきたけど、
いつの間にか、女も捨てちゃってたんだ、、、。
私の女としての喜びをどこに置いてきちゃったんだろう!!
そう思ったとき、なんだかもう悲しくてむなしくて。
こりゃまずい!!って本当に思ったよね。
大地は潤ってないと!
女は潤ってないと!!
望む方向に進んだ結果、
こんなにカサカサになってしまって、
あれ???
幸せになりたくてこの道歩んでたのに、
私、どこにきちゃったんだろう??って(笑)
今では笑って話せるけどね、
あのとき本当にがっくりした。
そしてあの時、私の中で何かが確かに、
音を立てて壊れていったんだ。
OSHOカードは<MATURITY>
このスケッチと、
私が体験したストーリーを表すOSHOカードは、
<MATURITY>
このカードの意味は「円熟」。
数あるOSHOカードの中でも、一番好きなカードがここで出た。
このカードは奥深い意味を携えてるのよね。
私のこの十数年の体験を表すのにこのカードが出たこと、
そして私がこれからの人生で、
もっとも大事にしたいと思っているキーワード「円熟」が出たことに、
頭ではなく、ハートが納得している。
そしてハラでそれを受けとめてる。
今進めている<円満ライフメソッド>も、この「円熟」を大事にしているし、
これから立ち上げたいと思っているプライベートブランドも
<Maturité>マチュリテ、フランス語で円熟を意味する言葉。
私が自然に対して、
ゆがみはあったけど、
確かにそれはいびつだったけど、
私なりに真剣に向き合ってきたプロセスが、
これから花開き、成熟し、
円熟していくんだろうって感じる。
カードからのメッセージ
このカードは、内なる実在の開花、そして全体性を表してて、
その「内なる実在の開花」とは、意識(コンシャスネス)の目覚めのことを言っているのだと私は捉えている。
各チャクラにある、蓮の花ビラがそれぞれに開花したとき、意識の目覚めが起こる。
そして「全体性」とは、右だ左だ、上だ下だ、善し悪しだ、正誤だと分け隔てていたものが統合された状態。
自分だ他人だと分離していたところから、
そして何より、「私」と「本来の私」その分離ゆえ感じていた痛みが癒された状態。
OSHOの”LOVE”という詩にあるこのことだと思う。
全体(whole)と、神聖(holy)と、癒す(heal)という単語が
同一の語源を持っているという事実は真実を秘めている。全体的である者は癒されてもおり、
また癒されるとは全体になるということだ。この全体性を達成するには全面的に自分自身を意識するしかない。
無意識の闇を貫いてそれを光に変容しなければならないのだ。
そして瞑想こそがその方法だ。
Osho, A Cup of Tea, #1 より抜粋
美しい言葉だな。
私はやはり、こういう在り方に強いあこがれを持つ。
これは、このコンセプティングの投稿の1稿に書いたとおり、
悟りへの渇望があるということなんだろう。
当時の未熟な渇望は、
もう地球には二度と来たくない!
輪廻の輪から抜けだしたい。
その思いから来たもので、
自分の生を拒絶したところから始まっていた。
でも今は違う。
この生を愛おしく感じるからこそ、私は意識の覚醒を心から望む。
これはもうしょうがない。
だって私の魂が望むことだから。
意識が目醒めること。
私たちが「私」と認識している「私」と、
内なる本当の「私」、
源と繋がっている高次の「私」との繋がりを実感すること。
そしてその中に寛ぎ、
深い安堵の中で「全体」となるときの「至福」を、
私は今生、真に体験することを求めてきてるんだもん。
そして、癒しとはゆるし以外のなにものでもないと感じていて、
そのゆるしこそが、円熟さだと思っている。
このカードの彼が感じている「内なる開花」と「全体性」には、
どんな制限もなく動いてゆくだけのゆとりがある。
彼はどの方向にも動いてゆくことができる。
喜びと円熟が外側のものに擦り減らされることはない。
彼は常に中心にいて、さらに広がっていくのです。
そしてカードはこう続ける。
生でのすべての体験が、完成というこの時に彼を導く。
もう基礎はしっかり固まっている。
それは内側ですでに体験してきたことだから。
私は自然の中で過ごした時間によって、
たくさんの相反する体験をしてきた。
天と地、
芽吹きと間引き
命の誕生と死、
孤立、孤独、
繋がり、信頼、
強さと弱さ、
安定と不安定、
豊かさと貧しさ、
乾燥と潤い、
愛と無関心。
そしてこれこそが命そのものの動き。
その動きに内にある喜びや円熟さは擦り減られることはない。
それは、その動きすら私の中に内在し、包み込んでいるものだから。
続く↓
コメント