命は自然、自然はいびつ、いびつが美しい

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2つ目のハイライトは、畑。

大地とお天道様と種と命

<大地とお天道様と命の循環>

2010年から私の意識は、農的暮らしに吸い寄せられていった。

「もう都会で暮らすのが息苦しいな、、、」そんな思いと、

「食」を探究すればするほど、You are what you eat. の言葉が真実に感じ、であれば、自分を作る「食」を作ってみたい、と思うようになっていった。

そんな思いを抱いていた時、東日本大震災が起こり、

私は深い無力感と絶望感を感じ、
➡このあたりのことはこちらに書いてあります。

そして同時に大きな希望を感じて、
東京を離れ相模湖に移住し本格的に農的暮らしへ移行していった。

種、命の芽吹きは、時が満ち、条件がそろったとき

農業をやってみて一番のハイライトは何かと振り返ってみると、

種の発芽。
命の芽吹き。

命ってすごい。
種ってヤバイ!

そんな言葉が溢れてきた。

そうなんだ。

私は、植物の発芽の瞬間にいちばん胸がときめいた。
あれは喜び以外なにものでもなかったな、と思う。

今まで堅い殻に覆われ、
静かに眠っていた種たちが、

土に蒔かれたときから、
命の目覚めのスイッチを押されたかのように、

大地をかき分け芽吹く姿は、
どんな小さな芽でも力強かった。

そして種ごとに、

太陽の光が好きだ、嫌いだ、
水分が多いのが好きだ、嫌いだ、と

好みがあってね、

その好みに合わなければ、スイッチが押されずうまく発芽しないのよ。

だからこそ、

その種ごとに、かぶせる土の量、与える水の量をかえて、

条件を整えてあげるの。

すると、時が満ちた!と言わんばかりに種は発芽する。

そんな姿を見ては、

私たちも一緒だなー、すごくそう思った。


時が満ち、そして条件がそろったときに、
命の芽吹きは起こるもの。

そんなことを強く感じた日々だった。

命の美しさは自然体なそのいびつさ

種(たね)とひとことで言ってもその種(しゅ)はまさに多種多様!

野菜の品種ごとに、種(たね)の形状は異なり、
でも、種(しゅ)が近いと、種(たね)の形も似てる。

当たり前のことなんだろうけど、
植物に疎かった私は、とても新鮮なこととしてそれを受け止めてた。

これまで、

にんじん、大根、ほうれん草、じゃがいも、、、

と、ざっくり「野菜」としか見てなかったものが、

各野菜たちの品種の多さに驚かされ、

それぞれに育て方も全然違くて、

そのすべての命は、とにかく個性的なものなんだな、ということに意識がむいた。

そして、たとえ品種が一緒で、
種(たね)の見た目が似てても、

その結果、つまり、つく実や葉は全然違うから。

そして咲かせる花もまた違う。

しかも野菜の花は本当に美しいのよ。

私たちにとって野菜って「食物」であって「植物」という実感がないでしょう。

スーパーに並ぶ野菜をみて、花を想像することなんてまずないと思う。

でもね、野菜の花の美しさには、本当にうっとりするよ。

野菜たちが、

小さな種から発芽し、
大地の肥沃さ、太陽の恵み、そして雨風から力をもらい、

すくすくと育つプロセスに、
私は、すっかり魅了されていたと思う。

さらに、我が家は「自然栽培」という農薬も肥料も使わない方法で野菜を育ててたから、

そして「固定種、在来種」といわれる、その土地土地で生まれ育った野菜を、長年、種を受け継ぎ育ってきている野菜を選んでいたから、

育った野菜たちは、

形もサイズもバラバラ、

みんないびつで個性的で、

そして味も格別!

私はそんな野菜たちの姿を観ながら、

私たち人間もまた、

自然な環境で、自然に育つことで、

さらに、ある程度の過酷さを乗り越えていくことで、

みんな個性があって、
そのすべてがいびつで、
それがまた美しく、

だからこそ、人としての旨味が出る!

そう確信したの。


スーパーに並ぶ野菜たちが、

人工的につくられた空間で、

過剰な肥料と、それに伴う過剰な農薬を与えられ、

形もサイズもおんなじで、
箱に入れられ効率よく輸送するためだけにそのように育てられ、

加工食品や総菜の味や規格を均一化するために、
味のない野菜を作るよう、企業側から農家に依頼がある、とか聞かされると、

個性を失い、旨味を失い、輝きを失い、
売れなければ廃棄される野菜たちの姿が、

親や社会の価値観、学校教育によって個性を制限され、

自由を奪われ、個の彩を失った現代の私たちと重なって、

なんだか猛烈に悲しみを覚えてたんだ。

そして、植物だけでなく、
家畜といわれる動物たちの命が、

大量生産、大量消費の流れの中で、
命を「商品」として扱われ売買されることに強い痛みを感じてた。

命がもっともっと自然の営みの中で、

自由に成果を生み出し、
自由に花開ける世界が、

そして、命のランクのない世界が見たい。

たくさんの気づきが起これば起こるほど、
だからこそ、既存の世界を否定し続けてた。

今ならわかる。
否定は決して変容を起こす力にはならない。

間引きの痛みは中絶の痛みだった

そしてこんなこともよく思ってた。

子どもを産んでいない私にとって、

植物の命を芽吹かせること、そして育むこと、

それが私の受胎であり出産なのかな、と。

そしてその成長を見守ることで、
自分の中の母性をみとめ、
自分にも母性があると、ゆるしてあげた実感があった。

そんな中、畑をやっていて、
私を猛烈に切なくさせたのが、

間引き。

せっかく生まれたその命を、
あるとき間引かなくてはならないという現実に、

なんだか言葉にならない悲しみを感じてしまったの。

「間引きの痛み」

芽生えた命を間引くとき、
私は何度も胸が潰されるような気持になった。

そしてある時は、

その間引きに対して麻痺して当たり前に、
しかも雑にやってしまっている自分に気づき、
またうなだれた。

せっかく生まれた命、
しかも自分で蒔いた命。

他の子を健やかにするためにしかたないとはいえ、
命を選別し間引かなくてはいけないなんて。

そこに猛烈に違和感を感じてしまったんだ。

夫に対して、

「間引けない。なんか痛々しくてつらい。」

そう訴えたこともある。

「じゃあ、最初から蒔かなければいいじゃん!」とも言った。

彼は私の極端なその想いを受け止めてはくれたけど、

「発芽の時は弱いから密集が必要。寄り添って支えあう必要があるんだよ。だからたくさん蒔いて、ぎゅうぎゅう詰めで生えてくるの。

そして、そのあと、成長していくプロセスはスペースが必要なんだ。だから間引いてあげないと、育たないだよ。」

そんなふうに説明してくれたっけ。

今思えば、当時の私はセンシティブになり過ぎていた。

命に向き合いすぎて、
心のゆとりみたいなのがなくなっていたなって思うけど、

あの頃は真剣だった。

そしてこれはその後、
心の探求をしたときはっきり認識したこととして、

あの間引きへの執拗な痛みは、
私自身が若いころに体験した「中絶への罪悪感」と繋がっていたということ。

自分で蒔いた命を自分でつんでしまった。

そんなしまい込んでた罪悪感が、

命を育むプロセスで、
私にも母性があったんだと認め、
その存在をゆるしたと同時に、

やっぱり命をつまなきゃいけない、

という現実を体験させたんだ。

奥に閉まっていたあの罪悪感を見つめるきっかけとして、
あの現実を自分で創っていたんだ。

でもあのときは、それができなかった。

自分ではもう、

とうの昔の出来事、終わったこと、

そう思い込んで生きてきた。

思い出すことすらなくなってた。

でもあのときの痛みを感じきることなく、
闇に葬っていたものだから、

結局また「罪悪感を感じる」という現実を創造し、
それを追体験してた。

そんな人生のからくりも今ならよくわかる。

私たちは、過去、感じきれなかった痛みに、
無意識に大きな影響を受け続けてる。

いま目の前の現実で感じているその感情は、

過去のある出来事で感じた痛みが、

「まだ未消化だよ。もう過去を過去に起き、前に進むべき時だよ。」

そう自分に語り掛けているサイン。

それを本当にゆるし癒すために、
何度も何度も、同じ感情を味わう出来事を創造し続けてる。

命の循環、命のピュアさ

野菜が育っていくプロセスは美しい。

芽吹き、育ち、葉をたたえ、
実がなり、花を咲かせ、種をつけ、枯れていく。

そしてその種がまた来年につながる。

あの命の循環を目の当たりにしたとき、

私は、叶わないな、と思った。

植物たちが延々と繰り返している、
無条件でなんのエゴもない命の営み。

植物にも実は明確な意思があり、
感覚もあると言われる。

そして、

そばに生えているもの同士、
根っこを通してコミュニケーションをはかり、
助け合い、支えあい、生きていると言われてる。

そして、雨風、日照りに耐え、
健気にそこにいる姿に、

なんか、ものすごい力を感じて、

ただただ、叶わないな、と畏怖の念を抱きつつ、
実は、自分の無力感に触れるきっかけとなった。

そして植物とともにそこに生きている虫たちの命。

この虫もまた、ただただそこで生きてる。

自然栽培だから、虫の存在にも助けられ、
土の中の微生物たちにも助けられ、

自然のありのままの姿で命を支えあっている、ということを、

目の当たりにすればするほど、

害虫だ、気持ちが悪いだ、といって虫を殺すことができなくなっていった。

虫もただただ生きている。

虫をとっさに殺してしまう自分に問いかけた。

この虫を殺すことの意味は何だろう。

もうね、問いかければ問いかけるほど、
殺す意味なんてないように思えて。

そうなると、私の感情や感覚は置き去りにされていった。

嫌だと感じる気持ちを抑え込み、虫の命を優先!

あぁ、振り返れば振り返るほど、
私は自分の思考という狭い世界に閉じ込められていってたんだな。

だからこそ、畑を始めた当初に感じていた喜びは、
苦痛に転じていった。

あのころ、私にとってのライフワークである、
ヨガや瞑想からどんどん離れていって、

自分の中を感じる、ということをしなくなってた。

そして究極は、肉体労働の過酷さ。

そして最終的には夫との不和。

光も闇も、存分に味わった時期だった。

OSHOカードは<ICE-OLATION>

このスケッチと、
私が体験したストーリーを表すOSHOカードは、

<ICE-OLATION>

「アイス – オレーション」

もうこれまたまさに!な1枚。

意味は、「凍りつき、孤立すること」

思えば、当時の私は「自分が正しい」という思いに取りつかれていたと思う。

これまで自分が学び実践してきたこと、

そして311の後、強く感じた、このままじゃいけない!という、既存の社会の在り方に対する反発心、

そこに甘んじている人たちに対する失望感、そして軽蔑感。

強い言葉だけど、当時の私は正直そう思ってた。

「もういい加減気づこうよ!!もうこのままじゃだめだよ!!
地球が壊れてしまう。これから世界はどうなっていくんだろう、、、」

そんな思いでいっぱいになってた。

だからこそ、口では多様性を言いながらも、

私がいいと思うこと、

自然栽培、オーガニック、マクロビオティック、発酵食、そのほか、多くのこだわりを持ち生きてて、それを「正しいもの」として捉えて、皆さんにシェアしていたと思う。

「自己」に入り込みすぎると惨めだ、とOSHOはこのカードで伝えてくれてて、

それはまさに、

「私」と「他」を切り離し、

「善」「悪」に境界線を張り、

「これは正しい、あれは間違っている」という考えを強めている状態を言っているんだと思う。

カードからのメッセージ

そして、このカードからのメッセージはこう。

私たちの社会では、泣いてはいけない、痛みを感じても、それを顔に出してはいけない、そう教えられてきた。

だからこそ、私たちは感じた痛みを押し殺す。

そして、その痛みが深ければ深いほど、

自分自身をだますように、その痛みを隠そうとする。

そのため、私たちの感情や感覚は凍りつき、かたくなってしまう。

その感情や感覚の凍りつきを溶かすのは、涙しかない。

泣いていいのです。

自分の涙を恥ずかしがることはないのです。

泣くことは私たちが痛みを手放すのを助け、

自分に優しく、そして自分を癒すのを助けてくれるのです。

当時を振り返ると、私は本当によく怒ってた。

なんだか、いつも自分が責められているような気持ちになってた。

自分が本当にダメな存在に感じて、
いつもイライラしてた。


そんな自分をもてあまし、

当時は「地球のため」「人のため」を最優先にし、
自分の生活の中にたくさんのルールを設け、
あらゆることへの「べきねば思考」を強めて、

夫婦ふたりで、牢獄に入ったみたいに監視しあい、
制限を掛け合っていたように思う。

そして、過去、互いがそれぞれに行った、
感情と感覚の凍りつきを、
農的暮らしの中で破壊していくプロセスだった。

自然の中のいびつさが美しいと実感しながらも、
自分の中のいびつさにはゆるしが起きなかった。

自分は正しくあらねば、みたいな気持ちが増幅してた。

意識が外に向きすぎたことによって、
私は私との分離を深めてたと、後になってわかる。

それは、最終的に、周りとの分離を深める結果になった。

私は自分とのパートナーシップ、
そして、目の前の夫とのパートナーシップ、

さらに、周りの人たちとの人間関係にも、
大変容を起こすことになっていく。

続く↓

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