
海に入ると、
心も身体もおおらかになる。
あの広い海を眺めてるだけで、
私は広大な解放感と自由を感じる。

解放感には罪悪感が伴い、
自由には責任が伴う。
罪悪感に苦しむとき、
私たちは、
その前に必ずと言っていいほど「快楽」を感じてる。
〇〇しなかったから罪悪感。
〇〇したから罪悪感。
その〇〇は、
例えば、
さぼったり(やるべきだと思い込んでることをやらない)
貪ったり(寝すぎた、食べすぎた、怠けた、、、やってはいけないと思い込んでることをしてしまった)
傷つけたり(裏切った、嘘をついた、だました)
盗んだ(物質的なものはもちろん、人の時間=遅刻とか、人の機会やチャンスとかも)
さらに、自分の才能や強みを発揮してないときも、
なんかモヤモヤするのは罪悪感だと私は思ってる。
それは以前、
私は自分の本当の力を発揮できていない不甲斐なさに嫌気がさし、
そのことに自分が自分にめちゃくちゃ怒ってることに気づき、
自分で自分の可能性を奪ってることに気づき、
そのことで自分で自分を罰してることに気づき、
内なる罪と罰のループにハマってたことに気づき、
そこから脱却したから。
私たちは、
自分が無意識的に快や楽を選んだ後に、
罪悪感を感じるものなんだね。
でもさ、
人は本来的に、
快と楽を強く望んでるだよ。
だからこそ、
個人的な快楽を選択することに、
私たちは罪の意識を感じるように、
洗脳されてきてる。
もちろん、性の領域も。
そして責任についても同じ。
責任をとれ!的な、
「責任」とは、
非常に重たいものとして捉えられてることが多い。
責任をとることがこわくて、
自由を放棄してしまう。
私たちは、
本質的に皆、
自由な選択ができる存在にもかかわらず。
罪悪感の前にある、
快や楽を望み、
それを選んだ自分を許してあげようよ。
さぼってしまった私。
貪ってしまった私。
傷つけてしまったと感じる私。
盗んでしまった私。
それらをゆるす。
それがその時の私だと。
そして、私の中には、
そんな側面もある、と。
そして、
自由を選択し、
そこに責任をはたせる自分を信頼してあげる。
責任とは、
respons + ability
対応できる能力。
自分の人生に起こることは、
自分が対応できることしか起こらない。
起こしていない。
自分が起こしたことなら、
どんなことにも対応できるんだ、と信じてみる。
この自分への信頼こそが自信。
解放感と自由。
このふたつを私は強く望んでいる。
だからこそ、
その時のその選択をした自分をゆるし、
罪悪感を手放した。
自分の選択の結果に、
対応可能だと信じ、
責任をはたす覚悟をした。
その先に見えてきた世界は、
まさに、
解放感と自由溢れる世界だった。
そして、
自分にそれをゆるした時、
誰かがそれを選択することを、
ゆるせる私になる。
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