「にゃんだ」が死んだ。
正確には、にゃんだが死んだみたいだ。
昨日、心友とのランチを終えて自宅に戻り、
夕方、その訃報に触れた。
にゃんだは、私がドイツにいたときに出会った猫。
ちなみに「にゃんだ」はニックネームで、
本名はMÜN。みぅん、と読む。
ミュンヘンで拾ったから、ドイツ語表記のMÜNCHEN みぅんしぇん の みぅん。
Ü(ウムラウト)が読みずらいから、みゅん、と呼んでたけど、
いつしか「にゃんだ」になった。
余談、なんで「にゃんだ」になったか。
実は、その語源は「ゴータマ・シッダールタ」
夫が私を「はるーた」と呼びはじめ、
みゅんを「にゃんだーるた」と呼び始め、
そこから「にゃんだ」になった(笑)
ちなみに、インドでは、ヨガの師のことを、スワミジ、と呼ぶ。
スワミは先生、ジは敬称だ。
そこから、「はるだじ」、「にゃんだじ」という呼び方のバリエーションもあった。
にゃんだは、2001年生まれ。
ミュンヘンに暮らしてた私の元に、
ドイツ人とイギリス人のカップルの友人から電話があり、
「ハルミ、猫飼いたがってたよね?
いま、可愛い子猫を拾ったから、ハルミ、いる?」
と言われ、一目散に会いに行ったんだ。
生後2ヶ月ほどの可愛いメス猫だった。
にゃんだは、私の「娘」じゃなかった。
ドイツのミュンヘン、その後、スウェーデンのマルメ、
そして、日本に帰国し、
私たちはこの20年の変遷を共に乗り越えてきた。
彼女は、ずっとずっとそばで見守ってくれた親友のような、同志のような存在。
2003年日本に帰国した私は、これまで6回の引っ越しをしていて、
もちろん、にゃんだはその間ずっと一緒だった。
ヨーロッパ時代を含めると、この20年で9回の転居を経験した私たち。
ドイツからデンマークのフライトを経験した。
ミュンヘンからマルメへの転居の際は、
デンマーク、スウェーデン入国に伴う狂犬病検査のため、
ドイツのティアハイムという施設で3ヶ月の待機の時を過ごした。
そして日本帰国の際は、
デンマークのコペンハーゲンから成田へのフライトも経験した。
コペンから成田は「貨物」として扱うのが嫌で、
ビジネスクラスを2席とり、
私の横の席でゲージでぐっすり寝ていたな。
2003年離婚を決めて、ヨーロッパからひとり、みゅんだけを抱きしめ帰国。
私は彼女とふたりで新しい人生を切り開くこととなった。
2004年ごろ、派遣社員としてのOL暮らしと、
夜は銀座でホステスをしながら、
心身ズタボロになっていた私。
みゅんだけが心の支えだった。
そんなころ、今の夫と出会い同棲。
そこから3人の暮らしになっていった。
あれから17年。
2006年ごろから、私たちはよくキャンプに出掛けた。
もちろんにゃんだも連れて。
3人でテントで暮らした。
長いときは1週間ほど、川原でテントを張り、
そこで一緒に過ごした。
にゃんだは、アウトドアも経験した。
川原でにゃんだは、はじめて外の世界を知った。
テントから出て、川原を歩き、木に登る経験をした。
2012年、東日本大震災を受けて、
私たちは都内から相模湖に引っ越し田舎暮らしを始めた。
それを機に、これまで室内で過ごしていたにゃんだを、
外の世界に開放した。
勝手口から恐る恐る出て行っては、
家の周りを「ニャトロール」して興奮して帰ってきた。
そして、じょじょに環境に慣れていった。
あの頃、私ははじめて、親の気持ちがわかった。
私が夜遊びを始めたころ、親はさぞややきもきしただろうな、と。
いつ帰ってくるわからない娘を待つ親の気持ちが、
にゃんだが外猫になっていくプロセスで、痛いほどわかった。
にゃんだが外に出て行くたびに、信じるしかない、そう思ったのをよく覚えてる。
怖かったけど手放すしかない、そんな体験だった。
2012年に母、14年に父が他界したのを機に、
両親が飼っていた「ジェル婆」を我が家に招き入れた。
ジェルは18歳のメス猫だった。
にゃんだはドイツ猫、ジェル婆はロシアンブルー、ロシア猫。
非常に仲が悪かった(笑)
一定の距離を保ち、猫2匹の同居が決まった矢先、
生後2ヶ月のシータとラーマが来た。
にゃんだ、ひとりお姫様の立場から一転、
一気に4匹の多頭生活に突入。
にゃんだは、神経質になり始めた。
にゃんだは、孤高のニャンなんだ。
ひとりが好きで、甘えん坊のくせにツンデレ系。
2012年からはじめた「おだやか家」。
我が家には、いつも大勢の方が出入りしてた。
にゃんだ、ジェル婆、シータとラーマは、我が家の看板猫だった。
2017年ごろだったか、知人が飼えなくったという子猫マメをもらい受けたときもあり、
当時、我が家には5匹の猫がいた。
野良猫もよく出入りしてたので、なんだか猫屋敷みたいだった。
そして、にゃんだは、外泊の日が増えていった。
どんどん、帰ってこなくなった。
近所を散歩してると、うちから200mほどのお宅を別宅にしてるのがわかった。
そちらのお宅の2階のベランダで寛ぐにゃんだを何度も目撃した。
別宅でも愛されてるようで安心してた。
2017年、ジェル婆が23年のにゃん生を閉じ、
もらい受けたマメは家出してしまい、
にゃんだとシータとラーマ、3匹の暮らしになった。
そのころ、私は夫と離婚。
シータとラーマだけを連れて一度家を出た。
にゃんだをここに残し出て行った私。
彼女はほとんど家に寄り付かなくなり、
私たちの家庭は、本当に、崩壊、した。
そして、夫とやり直すことを決め、またこの家に戻り再婚となったが、
にゃんだは相変わらずマイペースで暮らしてた。
2019年の夏から秋にかけて、月1にゃんだ、となり、
ときどきふらっと帰ってきては、
にゃんまい(私の手づくりご飯)を食べてはまた別宅に帰って行った。
ある意味、にゃんだの暮らしに憧れた。
なんて自由なんだろう。
シータとラーマと散歩をしてると、その別宅のあたりでにゃんだに会う。
そして、別宅のお母さんとも立ち話をするようになっていった。
にゃんだは、ニャンちゃん、と呼ばれていた。
シータは白茶ちゃん、ラーマはぺちゃくんと呼ばれていた。
別宅のお母さんは70歳くらいだろうか。
愛犬を失ったとき、ニャンちゃんが来てくれるようになったの。
そして、白茶ちゃん、ぺちゃくんもよく来てくれる。
この子たちに救われたの、そう言って涙ぐんでた。
お母さんは、うちの子のためにちゃんとエサを用意してくれてた。
しかも、ペットフードじゃなく、鶏肉を茹でてくれてた。
にゃんだはお宅に上がり込み、家の中で過ごしつつ、
そこからさらに50mほど下の空き地を住処にしてた。
シータとラーマは散歩に行って、にゃんだと会い挨拶を交わしてた。
猫の世界の関係性がそこに築かれてた。
私は、お母さんに深くお礼をいい、今後ともよろしくお願いいたします、と頭を下げた。
あの子たちが安心して自由に内と外を行き来できるのは、
こういうご近所さんの温かい愛があるから。
そして昨日の夕方、私は心友とのランチを終え自宅に戻り、
いつもお世話になっているお母さんに、
お裾分けの果物をもってお邪魔した。
そして、
最近来てますか?
と尋ねたところ、
「ニャンちゃんね、5月20日の水曜日いらい、来てないのよ。
忘れもしない、5月20日、水曜だった。
夕方、少し暗くなったときに玄関の前にいたんだけど、
中に入ってこなかったのよ。
呼んだんだけどね。
具合が悪いというより、なんか、物思いにふけってるようだった。
お宅の方をじっと眺めて、そこに座ってたの。
そして翌日の朝、息子が朝見たらしいの。
でも、それいらい、一度も来ないのよ。
山ごもりしたのかもね、と話してたの。
私もだいぶ泣いたわ。
ニャンちゃん、なんで最期だって言ってくれなかったの、って。
そしたらね、その日から、白茶ちゃんとぺちゃくんが、
うちの周りをぐるぐる、ニャンちゃんを探してたみたいだった。
そして、いつもいっぱいエサを食べるぺちゃくんが、
あまり食べなくなったのよ。
ニャンちゃんがいなくなったのが、やっぱりわかるのね。
今でもニャンちゃんを思い出すと涙が溢れるの。」
そう教えてくれた。
それを聞きながら、私も涙が止まらなくなった。
しばし立ち話をしながら、
私は、最後ににゃんだを見たのはいつだったろうと考えてた。
ある日、うちの庭をしれーっと横切ったから、
すぐに部屋から出て、にゃんだをむんずと捕まえ、
家にいれてご飯をあげた。
いい食いっぷりだった。
そして食べ終わったら、すぐに出て行こうとするにゃんだを抱きしめ、
写真を撮ったんだ。
あれ、いつだったろう、、、。
お母さんには深く感謝を伝えた。
お母さんも、私こそ、あの子たちからたくさんの愛を受け取りました、ありがとう。と言ってくれた。
家に戻る道すがら、夕焼けが果てしなく美しく、
その脇に広がる森に向かって、にゃんだー、にゃんだー、と泣きながら声をかけた。
家に戻り、夫にそれを伝えた。
実は梅雨あたりから、散歩してもにゃんだを見かけなかった。
私はある暑い日、にゃんだ、この夏を越せないだろうな、と直感で感じた。
なんかもういないような気がした。
そんな話をしたね、と夫と話した。
そして、パソコンを開き、あの日はいつだったか、
にゃんだとの最後の2ショットの画像を見つけ出し、
そのデータをみたら、
まさにあれが、
5月21日だった。
本当に最期の日だったんだ。
にゃんだは、最期、
やっぱり私に会いに来てくれてたんだ。
最期、私のご飯を食べて、逝ってくれたんだ。
にゃんだ。
にゃんだ。
にゃんだー。
それから、昔のフォルダを漁るように見た。
にゃんだの写真がやまほどあって、
その1枚1枚に思い出が詰まってて、
にゃんだを想うと、
いろんな感情が湧き上がってきた。
動揺した。
あと2時間ほどで、夜のヨガの時間。
ダメだ、今日はできない。
グループのメンバーに事情を説明し、
夜のヨガはお休みにさせてもらった。
それから、夫とふたりで弔い酒を飲んだ。
たくさんの思い出話をした。
あの子が私たちにくれた愛を、
その恩恵を受け取った。
泣けて泣けて仕方なかった。
しばらくして、
私は瞑想した。
意識をハートから腹に落とし、
深く呼吸した。
深く呼吸しながら、ぼーっと自分の源に繋がった瞬間、
はっとした。
にゃんだの「存在」は、今もここに在ると知れた瞬間だった。
今日の夕方、私はにゃんだの死を知った。
というか、死んだかもしれないという可能性に触れただけだ。
実際はわかんない。
夫に、
ねー、もしかしたら、上の集落の、もっと快適な別宅に越しただけかもしれないもんね!と笑っていった。
あんがい、そっちでもっと快適な暮らしをしてるかもしれないもんね!と。
ただ、今日の夕方、私は、にゃんだの死を意識で捉えただけ。
つまり、死を観測したんだ。
それまでだって、彼女の身体を観ないときはたくさんあった。
でも、いつでも、あの別宅にいる、と意識で捉えてるから、
にゃんだは、そこに存在してたんだ。
5月21日、にゃんだを最後に見てからだって、
私は、にゃんだは別宅にいる、と観測し続けてたときは、
にゃんだはそこで生きてたんだ。
でも、死を観測した瞬間、にゃんだはいなくなった。
ゼロポイントフィールドのヒモだ。
観測した瞬間、そのヒモは素粒子となり、物質化する。
生を観測すれば、そこに生があり、
死を観測した瞬間、そこに死が現れる。
もしにゃんだが、
本当に身体を離れ、
その亡骸が森の土に還っていたとしても、
私の観測次第で、
にゃんだの魂は、ゼロポイントフィールドという虚空に在り、
私がそれを在ると観測した瞬間、
粒化して存在を現わしてくれる。
私の観測次第だ。
にゃんだは、なくなったわけじゃない。
私がにゃんだの存在を、在ると観測すれば、
その虚空に、ゼロポイントフィールドに、
にゃんだの存在は存在する。
今ここのこの虚空に、共にいる。
にゃんだは、ずっと、ここに在るんだ。
そんな想いが腹から湧き上がったとき、
また私は泣いた。
暖かい涙が溢れた。
生と死の境目は、
肉体からその意識、コンシャスネスが離れた状態。
コンシャスネスとは「存在」そのもの。
大いなるワンネスの場に、その存在が溶け込んだだけ。
溶け込んだからってなくなったわけではない。
ヒモという微細な振動を放つ見えない存在として、存在してる。
その存在を、どう観測するかで、実体が決まる。
やはり死は終わりでもなんでもない。
死は、ワンネスに溶け込むだけのこと。
そして、私もまたそのワンネスに繋がっている存在。
私の内なる存在は、常にそことコネクトしてる。
ほら、肉体と肉体という分離した状態以上に、
私はにゃんだと繋がっている。
私の中に、にゃんだが溶け込んだ。
死は、溶け込むことだ。
一体になることだ。
私は、それを確信したとき、
深い安堵を感じた。
にゃんだ、
にゃんだ、
あなたが肉体を持って存在してくれた時間を、
私に与えてくれてありがとう。
そして、たくさんの人の心に、
あなたは存在し続ける。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
昨日の知らせから一夜明けて、
朝の4時に目が醒めた。
瞑想して、
これを一気に書き上げた。
これを読んでくださった方、
ありがとうございます。
今も涙が溢れます。
死をこのように解釈しても、
やはり、悲しみという感情はここに在ります。
そして、私はこの悲しみを存分に味わいます。
悲しみを体験します。
この体験こそが、生きるということだから。
私はにゃんだの「存在」と共に、
そして、過去、死というプロセスを経たすべての「存在」と共に。
そして、今ここに生きているすべての存在とも、
実は繋がっているという解釈の元、
生きていきます。
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