里芋の根元で無力感に苛まれた私は、
その後、本当に何かをする気力がなくなるまで落ち込んでいった。
もう何をやっても無駄だ。
何をやってもうまくいく気がしない。
そんな気持ちでいっぱいになっていった。
そして、そのような気持ちで行動することは、
実際、何もかもがうまくいかなかった。
そして、
2017年秋ごろ、農的暮らしの中で感じた無力感は、
私の過去のトラウマをもう一度追体験させはじめた。
子供のころ、諍いの絶えない両親を前に、
何をやっても無駄だと感じていたこと。
酔って暴れる父に対し、母は無力であったこと、
そして私は、女は弱者で無力な存在だ、と思い込んだこと。
お金があれば幸せになれる、
でも、うちにはお金がない。
私は幸せにはなれないと諦めのような気持を抱いたこと。
先輩に囲まれ服を脱がされリンチにあった屈辱感。
10代のころ、二度の中絶をし、
もう私は一生子供が産めないんだと感じた罪悪感。
数々の男性との恋愛の中で、
幾度となく感じた空虚感。
2年間の内面の旅に出た時、
私の中には、今だ癒されていない、
たくさんの無力感、罪悪感、被害者意識、諦めが、うずたかく積もっていたことを改めて認識し、
そしてその奥にある、
私の源との繋がり、本当の力、可能性の光は、
闇の中に葬られていたことに気づいた。
そして、311以降の日本において私は、
権威、男性原理、資本主義社会、
比較競争社会、格差社会の前に、
同じ無力感、罪悪感、被害者意識、諦めを感じていた。
そこに立ち向かうことによって、
葬られた記憶による感覚と感情が、
炭酸の泡のように奥から浮上してきて、
私の身体を緊張させ、
心を頑なにさせた。
無力感を原動力に突き動かされた活動の結果は、
破綻。
あんなに愛し合い、分かり合えていたと思っていた夫との不仲。
夢を実現してきたプロセスが、
あの色彩豊かな生活が一変、モノクロの世界へと転換していった。
これはその後、心理を探究していた時に知った言葉。
「学習性無力感」
【学習性無力感】
努力を重ねても望む結果が得られない経験・状況が続いた結果、何をしても無意味だと思うようになり、不快な状態を脱する努力を行わなくなること。米国の心理学者マーティン=セリグマンが1967年に発表した心理学理論。
(出典:小学館デジタル大辞泉)
不快な状況を脱する努力をしなくなる。
自分には、不快な状況を脱する力が、ない。
そう思い込むこと。
この思い込みは、私たち人類には深く刷り込まれているのではないか。
それは戦後の教育によって、
親の価値観によって、
社会の在り方によって。
いや、もっと以前から。
「働けど働けど猶わが暮らし楽にならざりぢっと手を見る」
をうたったのは、明治の石川啄木。
いや、もっとそれ以前から、
貧困にあえぎ、
制度に縛られ、
人種差別、性差別を受け命の尊厳を奪われてきた歴史。
私は30歳のころ、東欧を旅してアウシュビッツ収容所に行ったことがあるが、あの中で生きた人たちはどれほどの絶望と無力感を味わったことだろう。
宗教的な支配の中で真理が封印され、
無数の女性たちが感じた痛みや無力感はどれほどのものだったろう。
いつの時代も、
人類の歴史には支配と争いが絶えない。
支配層によって命にランクをつけられ、
カースト、差別、格差社会の中で、
「何をやっても無駄だ」と、深い部分で思い込まされて生きてきたのではないか。
さらにスピリチュアルな領域の話だが、
私たち人類は、もともとは宇宙存在の奴隷として創造されたという説があり、
その時点ですでに、権威に対する奴隷的な絶対服従の在り方がDNAに埋め込まれているという。
そして2020年、コロナ禍、
いよいよ地球全体に同じテーマが与えられた。
私たち人類の過去生の記憶、
DNAレベルで刻印された嘆きが、
いよいよ浄化すべき時として、
今一度、深い無力感を感じざるを得ない出来事が増してきているように感じる。
そして、今日はその中でも自然災害にフォーカスしようと思う。
「自然の驚異には太刀打ちできない」
これは、私たちの集合無意識に深く刷り込まれている。
続く↓↓↓
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