『悲しみセラピー』

死ー両親との別離

<2012-02-14>

『悲しみの中で、いろいろ異なった段階を
 経験することを、前もって知っておいてください。

 動揺、無感覚、拒絶、ゆううつ、
 混乱、恐れ、怒り、苦しみ、
 自責の念、後悔、受容、希望などです。

 これらはどの順番ででも起こりますし、
 また回数もまちまちです。』

母が逝ってから1ヶ月がたった。

まだまだ悲しい。
最近特にね、ぶり返しがきてる感じ。

悲しみの感情は、本当に思いがけず、本当に唐突に、
ドーンっと胸の真ん中に湧き上がってくるんだ。

些細なことから記憶がつながって、
目の前に、母の最期の顔が浮かんだり、
母の声が聞こえてきたり、

ホスピスで一緒に寝泊りしてたときを思い出し、
その時が、無性に恋しくなり、
あの時に、戻りたくて戻りたくて、

私には、まだ何かできたんじゃないか、と、
ついつい、自分に問いかけてしまい、
小さく責めてる自分に気づき、

そんな自分を、精一杯許してあげてる。

スーパーに向かう自転車に乗りながら、
青空を見上げた瞬間に号泣した日もあったな。

電車の中で、目の前に座った、母くらいの年齢の方の杖を見たとき、
胸が締め付けられて、ポロポロと涙がこぼれたこともある。

ヨガをしてて、ポーズの中で体が開かれたとき、
私の中に母が入ってきて、母と一緒にいるような気がして、
嬉しいんだか、悲しいんだか、切ないという感じか。

いずれにせよ、体は涙を流した。
そして泣いてる自分を、ただ観てた。

そんなことが何度もある。

時々、すごく近くにいるような感覚を覚える。

でも、その気配はすぐに消えて、
また「あらお母さん、散歩いっちゃった」って感じ。

そうそう、星を見てると、なぜかすぐに母のことを考えてしまう。

よく「お母さんは、空のお星さまになったのよ」なんていうセリフが
あるけど、その気持ちが、今はすごくよく分かる。

カトリック信者である母は、教会で葬儀のミサを執り行い、
主イエス・キリストの御許へ、その食卓に招かれ、
同じテーブルに腰をかけ、楽しい晩餐の仲間入りしたんだ。

きっと、ちょっとオドオドしながらフォークとナイフを手にして、
赤ワインでも飲んだんだろう。

それが楽しい晩餐ならいいな、と。
そんなことを想像してる。

私は輪廻転生を信じるし、
意識=アートマンは永遠の存在であり、
人は生まれ変わり、また別の肉体をもって生きる。
そして、その肉体の中で、意識は永続する。

そう信じてる。

信じてた・・・。

いや、正直、いまはわかんなくなってるんだ。

命は本当に永遠なのか?

母の意識は、今どこにあるんだろう?
母の意識は、遍在してるのかな?

大いなる宇宙の意識、ヴィラータプルシャと合一したのか?

それを証明することは、誰にもできない。
残念ながら、今の私には感じることが出来ない。

母は私の中で永遠に生きる。

そうなのか?
記憶の中に留まるということ?

私の中で、私の存在の一部として、
私がこの肉体を持ち、「私」の意識があり、
チッタ(記憶)があるうちは共に生きてる。

でも、私もまた死ぬ。
必ず、いつか死ぬ。

そのとき、私の中に永遠に生きてた母はどうなるんだろう?

私はそれを引き継いでいくべきなんだろうけど・・・。

私には子供がいない。
私は、つなげていくところがないような、
そんな漠然とした不安を感じている。

それがものすごく悲しくて悲しくて、
耐え難い孤独に感じることが、たまにある。

「人はこの世に、ひとりで生まれてきて、
 ひとりで死んでいく。
 いつもひとりだ。
 だからこそ、独存するのだ。」

これは、ヴェーダにある基本の教え。

孤独と独存は、まったく違う。

私はヨガを学び実践するものとして、独存したいと思っていたけど、
いま、母を亡くした体験が、一気に孤独へと私を引っ張っている。

この体験は、思った以上にハードだわ。
なんというか、そのハードさに、他人事のようにすごく驚いてる。

そんなとき、私は『悲しみセラピー』のページを開く。

これは、昨年、お父様を癌でなくされたMちゃんが、
私に贈ってくれたもの。

これを読むと、私の心は安らかになる。

『悲しみの持つ力を重く考えましょう。
 悲しみは非常に強く、思いもよらない仕方で
 心にも、身体にも、魂にも、
 大きな影響を及ぼすこともあります。
 自分に優しくしていましょう。』

そして私は、悲しくなったら、
涙が溢れたらそれをガマンしないようにしてる。

それがどこであれ、回りを気にせず、
涙を流すようにしてる。

『泣いてもいいのです、
 あなたの涙は、愛情のしるしです。
 愛情から湧き出す涙は、
 癒しと立ち直りをもたらす助けとなります。

 喪失による深い悲しみを
 涙によってあらわしましょう。
 そして痛みと悲しみを、
 涙によって洗い流し始めましょう。』

死は決して終わりではない、
安らぎの源へ戻る旅路への出発だ。

そう信じてるけど、
旅立たれたことへの感情は湧き上がる。

感情は生まれる。
そしてそれは、とてもエネルギッシュな存在。

でも、その感情を、
それを感じてる自分を、
深呼吸しながら緩める術を知ってることで、
私は大いに救われている。

今の自分が何を体験してても、それをただ観てる。
観てる自分をリラックスさせる。

あとは、感情の高まりが、自然と鎮まっていくのを
見守るだけ。

またいつもの平常心が戻ってくる。
そして、悲しんでる自分をハグできる。

その繰り返し。

この1ヶ月は、その繰り返し。

少しずつ変化してる自分にも気づいてあげよう。

優しい声をかけてくれるみんな。
元気そうでよかった、と気遣ってくれるみんな。

『傷んだ心の悲しみを閉ざさないでください。
 その痛みを通して、
 神を-そして心を配ってくれる人を-
 迎え入れることができるのです。』

私は、いま、この経験をしてる。
この経験をするために、すべてが起きてるんだ、とも思える。

満ち足りること、
満足すること、
今の状態でいい、
これで十分。

そう思えることが「真の幸福」だと私は思ってる。

今の私に足りないものはない。
すべて私のうちにある。

満ち足りている。
そんなアファメーションと共に・・・。

今日はバレンタイン。

目の前に、生きていてくれる愛する人に、
素直に想いを伝えよう。

Om Shanti.

続く↓↓↓

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